木原滋文の島人コラム Vol.12

 

杉山物語 (4)

「戦争の名残−防空壕跡」

林道(遊歩道でもある)から100メートルほど下がった所に、防空壕の跡が。
現在はかなり浅くなっているが、小学生か中学生のころ初めて見たときは、もっと深く広かったような気がする。

いまさら言うまでもないが、防空壕は空襲を避けるために掘った穴である。
私自身、大連で社宅の裏庭に掘った壕に四家族で入った記憶がある。
息を潜めてじっとしていた恐ろしさは今でも忘れられない。
戦争末期の五歳だった。
内地ではその跡が、現在でもあちこち残っていて、そこで遊んでいた子どもが事故にあったという話はときどき聞く。
防空壕には二種類あって、竪穴式と横穴式がある。
竪穴式のものは平地に掘られたもので、これは埋めやすいのか、土地利用の関係からなのか、その跡が残っている話はほとんど聞かない。
一方、横穴式のものは、崖や山の急斜面に掘られたもので、事故が起きたのはこちらの方である。
沖縄戦では、この防空壕に、米軍が手榴弾を投げ込んだという痛ましい話も聞く。

閑話休題、わが山の壕跡は竪穴式である。
横1メートル、縦2メートル、深さ2メートルほどだったと推定される。
上を杉の丸太で覆ったものだったのだろう。
初めて見た時は、戦後十年は経っていず、その名残がまだあった。
そういう穴が二、三箇所今でもある。
近くの集落の人たちが掘ったものだと祖母に聞いたことがある。
非常時(現在用語では有事)だから止むを得なかったのだろうが、他人の土地に、しかも杉まで切り倒すなど、普通では考えられないことだ。

事実、屋久島でも空襲があり、戦後引き揚げて島に帰ってきたとき、コンクリート橋の一部が爆撃で壊され、木の仮橋が架かっていたのを憶えているし、今は取り壊した我が家の前の家に爆弾が落ち、その爆風で家が少し傾き、柱に爆弾の破片の傷が残っていた。
先日、能登半島の地震で、家屋が倒壊した映像をテレビで見たが、これが戦争によるものだったら、人々の反応はどう違っただろうと思わずにはいられなかった。
これは天災であるが、人災である戦争は勝ち戦であれ、負け戦であれ、庶民にプラスになるものはなにもない。
戦争を知らない人々が大半を占めるようになった日本では、戦争体験が風化されつつある。
真の平和とは、必ずしも戦争のない状態を指すものではないが、少なくとも戦争だけは避けなければならない。
先進国の日本人ならなおさらである。

杉山の中の小さな防空壕跡であるが、何か大切なものを伝えているように、私には思えてならない。

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