木原滋文の島人コラム Vol.15

 

母校への思い・・・自分史風に 1.

私には四つの母校がある。
予備校まで入れると六つになるが。
予備校はさておき、小学校から大学までだ。
誰しもそうであるように、それぞれでの成長過程を振り返ると、そこには懐かしさを伴い、いささか感傷的になるのは止むを得ないかもしれないが、できるだけ、冷静に見つめてみたい。

(1) 戦後間もなくの小学校時代

太宰風に書けば、ここに一枚の写真がある。
小学校正門前の築山付近で写した集合写真である。
裏面には、母の字で「昭和二十四年十二月写 宮浦小学三年AB組」とやや太めの青いインクで書かれている。
カラー写真でないのはもちろんだが、もう六十年近くも経っているのだから、セピア色といってもいいだろう。
大きな石で囲まれた築山にソテツが二本、葉を刈り取ったものと、葉のついたものが植えられている。
背景に見える木造校舎の前の、葉を落としたセンダンが枯れ木のように立っている。
右手のかなり後ろには、火の上山の大きな松の先端がかすかに写っている。
右手の築山の上に女の子二十四人、左手の地面に男の子三十二人の固い表情のあどけない顔が並んでいる。
後ろの方で、その撮影を見ている四人の上級生の笑顔とは対象的だ。
制服などあるわけでなし、思い思いの粗末な服装で、五つボタンの学生服やセーラー服が二〜三見える程度。
後方に立っておられる校長先生も、当時の大人たちがよく着ていたカーキ色(菜っ葉色…これは私の記憶であるが)の作業服を着ていらっしゃる。
時代を物語っていると言えよう。
背景の校舎は建て替えられ、松の木は松食い虫で枯死したとか。
また築山も今はない。
三人の先生方のうち、地元の方だった教頭先生はお亡くなりになったのだが、お二人の先生方はご存命なのだろうか。
同級生の中にも、分かっているだけで、六人は鬼籍に入った。
時々学校へ行く機会があり、当時の情景を思い描こうとするのだが、位置関係がどうしてもつかめない。

校舎裏にあった、今風に言えば学校農園には、から芋が植えてあり、糞尿を汲んで入れた肥えたんごを二人一組で担いで畑にかけた記憶がある。
二人の息が合わなければ、ちゃぷんちゃぷんゆれて、後ろを担いでいるとその飛沫が顔にかかることもあった。
五年生か六年生の頃だろう。
今なら子どもたちはもちろん親もなんというだろうか。
当時はそれがごく普通のことであり、今となってみると、それが生きる力を養う、生きた体験学習であったように思えてならない。

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