木原滋文の島人コラム Vol.17

 

母校への思い・・・自分史風に (3)
「中学校 1」

昭和28年4月に宮浦中に入学した。
敷地は小学校と隣同士で、生徒用のトイレは共同だったほど校舎も近かった。
現在の小中学校の境を流れている川の辺りに、小学校の校舎と垂直の位置に校舎はあった。
正門が変わっただけで、通学路はまったく同じ。
しかし、小学校と大きく変わったことがいくつかあった。

まず、徽章をつけた学制帽、それが誇らしく、農作業の手伝いなど下校時も被っていた。
高校でもそうだが、今の生徒たちには信じられないかもしれない。
校章は「中」の字の両脇の、縦の線が丸みを帯びている、現在のものよりシンプルなものだった。
いつ変わったのかはしれない。

次に授業。
それまで「ローマ字」だったのが「英語」になり、「算数」が「数学」に変わった。
なによりも教科ごとに先生が変わるのに驚いた。
今でも小さな学校ではそうなのだが、いわゆる専門外教科がほとんどだった。
特に一年時はそうだった。
数学の先生が体育の授業をしたり、英語の先生が国語や数学を受け持ったりなど。
でも、どの先生の授業も違和感はなかった。
授業がわかりやすかったのと、先入観がなかったからかもしれない。

そんな中で、忘れられないことがある。
それは二年の時の図工の授業である。
ある日の授業で「今日は普段目立たない場所を描きなさい」と言われた。
私達は何人かで、天井裏に昇った。
木造校舎だから、柱や梁などの入り組んだ様子を描こうと思ったのだろう。
昇り口は廊下にあり、すぐ近くは教室だった。
そこを覗いて見たくなったのである。
梁をまたいで、天井板に片足をつけた時、かすかな音がしたらしい。
すき間から、教室のみんなが上を見上げたのが見えた。
そこで止めておけばよかったのを、もう片足を下ろした時、どうやら、わら屑が落ちたようだ。
そこには稲わらが置いてあったのだ。
先生にも気づかれたようだ。
「そこにいるのはだれだ。降りて来い」。
校長先生の声だった。
しぶしぶ降りて行くと、
「なにをしていた」
「絵を描いていました。」
私の画用紙はまだ、真っ白だった。
が、友達の中には描き始めていた者もいた。
しばらくはお説教があったのは確かだったが、その先は記憶にない。
教科担任がかなりしぼられたのではなかっただろうか。
その先生は国語が専門ではなかったかと思う。
私は詩を教わり、藤村や白秋などの詩が載っている詩集を、転勤されるときいただいた。
その後の人生に影響を与えてくださったのかもしれない。
先生は、その後教師を辞められ、上京されたという話を聞いた。
大学時代、詩の専門誌に、先生のお名前を数回見たことがある。
教師体験を題材にした詩ではなかったかと思う。
ちなみに校長先生は、宮浦中校歌の作詞作曲者の猿楽清市先生である。
その時何の授業だったのかは知らないままである。
学生時代帰省途中、偶然川内駅でお会いして、名乗ったのだが、幸か不幸か憶えていらっしゃらなかった。

 

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