木原滋文の島人コラム Vol.19

 

母校への思い・・・自分史風に (5)
 「中学校 3」

教科で新しいものと言えば、今では技術家庭と名称が変わっているが、職業家庭という教科があった。
教科書は、表紙に「働く喜び」と書かれている、分厚いものだったが、その教科書は使ったのだろうか。
教科担任は、今もご健在の中島繁安先生で、農業がご専門だった。
雨の日の授業は、肥料の三原則などの理論であるが、いわゆる座学の記憶はほとんどない。
当時は、この教科も、音楽、体育、図工などとともに、高校の入試科目に入っていたのだが、どう対応したのだろうか。
近くの松林から落ち葉を集めてきて、肥料にしたり、校外の田んぼの土手に生えているチンチク竹を材料にして、二人一組でもっこを作る作業もあった。

これには苦い思い出がある。
私はK君と組んだのだが、二人共器用とは言えず、なかなか作業がはかどらない。
五時過ぎになってもでき上がらず、途中で投げ出してしまった。
二人共何食わぬ顔をして(内心どきどきしていたのだが)帰ってくると、正門のところに、中島先生が立っておられた。
帰りが遅いので心配しておられたのだろう。
「もっこはどうした」と言われた。
「出来上がらずそのまま置いてきました」と答えると、それを持ってくるように言われ、しぶしぶ二人で現場までいって、未完成のものを持ち帰った。
お説教があったのは言うまでもない。
後日、そのことを校内弁論大会で、「働く喜び」という題で発表したことを覚えている。
今でも、たまに先生にお会いすると、そのことが脳裏をよぎる。

そのほか、田植えのことも思い出す。
現在、新港に向かう道路になっている所あたりに、学校の田んぼがあった。
田植え、草取り、収穫まで自分たちでやった。
収穫は夏休み中で、新しい校舎の教室に脱穀機を持ち込んで稲こぎをしたことを鮮明に覚えている。
あの時代だからできたのかもしれない。
今にして思えば、時間がゆったりと流れていた。

 

●このページのトップへ↑

ホーム > 木原滋文の島人コラムINDEX > 島人コラム Vol.19