木原滋文の島人コラム Vol.20

 

母校への思い・・・自分史風に (6)
 「高校 1」

屋久島高校が私の母校である。
その母校が六十周年を迎える。
十年前の五十周年で事務局長として、記念事業に深くかかわった関係で、今回も素知らぬ顔をしているわけには、いかなくなった。

そこで、高校のPTA新聞に寄稿したものを転載して、一人でも多くの方々にご理解いただきたいと願うものである。

『屋久島高校の応援団に
 ・・・創立六十周年を前にして・・・』

1.屋久島に高校がなかったら?

屋久島高校は、昭和23年4月13日、種子島高校の分校として、産声を上げた。
翌24年、上屋久村立上屋久高校として独立、
26年、県立屋久島高校となる。
さらに全日制に切り替えられたのは六年後のことである。
その経緯は『青春有情』第三巻(昭和53年鹿児島新報社)に詳しい。
私も十年前、『季刊 生命の島』45陽春号に「屋久島高校創立五十周年への思い」という拙文を寄せているので、重複は避けたい。
ただ、「屋久島にも高校がほしい」「屋久島に高校がなかったら、現在の自分はなかっただろう」といった島の先賢方や先輩達の思いは、今一度かみしめてみる価値はあると思う。

2.これからの屋久島高校は?

学校とは児童生徒がいてはじめて成り立つ。
至極当然の話だ。
今、その児童生徒の数が激減している。
特に地方部においては、その傾向が著しい。
屋久島においても例外ではない。
小中学校の統廃合を経験した人も少なくないはずだ。
旧上屋久町では、集落自体がなくなった小杉谷は別としても、吉田,志戸子が一湊小に、楠川が宮浦小に統合されて久しい。
旧屋久町では、栗生、八幡、神山の各中学校が一つになった。
旧上屋久町でも4中学校(永田・一湊・宮浦・小瀬田)が一つになることがほぼ決まっている。

さて高校の場合、1990年代から、県は高校再編の検討に入った。
すでに14〜15校が消えたり、消えようとしている。
県は一島一校の場合は、特に配慮するといっている。
しかし、現在の屋久島高校の場合、一学年三学級ではあるが、定員120名を割り込んでいる。
今後、*島内の中学卒業生が150名を下回った場合、その8割以上が屋久島高校に進学しないと、現状維持か、さらに悪化することになる。
だから安閑としてはいられないというのが、私の十数年前からの思いなのである。
これは母校が消えるのは淋しいという、単に感傷だけで言っているのではない。
初めに述べた通り、屋久島に高校がなかったら、どれ程多くの、これから伸びようとする若者の芽が摘まれ、島外に出す親の経済的、精神的負担が増すだろうか。
そればかりではない。
屋久島高校が、島の体育文化や、ボランティアの面でも貢献しているのは周知の通りである。
そのことについては、南日本新聞の'記者の目'でも数回エールを送ったつもりである。

3.存続のための妙案は?

入学志願者が増えることの一言に尽きるのだが、ことはそう簡単ではない。
私の記憶では、この20年ほどでは、島内の志願者が最も多かったのが、130名そこそこではなかったか。
それでもその年の卒業生の七割程度だったように思う。
生徒数減少の中ではその割合を上げることが一つの方法だろう。

次に、島外の生徒を受け入れる態勢を整えることも一つの考え方だ。
現在、小学校で行なわれている「かめんこ留学」や「まんてん留学」はヒントにならないだろうか。
義務制と高校とでは違うことは百も承知の上での話である。
これまで各地で見られたような存続運動では、間に合わない。
それまでに手を打っておく必要がある。
少子化対策、若者の定住促進、屋久島の産業振興対策にまで話が及ばざるを得ない。

それはさておき、今、私たち同窓会や地域住民にできることは、屋久島高校を元気づけること、つまり、屋久島高校の応援団になることではないだろうか。

4.六十周年ってなにするの?

創立記念日は、学校の誕生日である。
人間ならば毎年お祝いをするだろうが、学校はそうはいかない。
そこで節目の十年ごとに周年事業を行なう。
五十周年は大きな節目という位置づけができた。
六十歳、人間では還暦という大きな節目なのだが、まさか学校に赤いチャンチャンコを着せるわけにもいくまい。
では、どんな位置づけをしたらいいのか。
地味なことかも知れないが、先に述べた応援団の確認ということではどうだろう。

これまで四回の準備委員会をもった。
(20年1月現在)構成は、
学校が、校長、教頭、事務長、同窓会PTA係、
PTAが、会長、副会長、
同窓会が、会長、副会長、事務局長、会計、
それに五十周年の経験者として私も出席している。
会は、来年度、先生方の異動とPTA役員改選後に立ち上げる、実行委員会に諮る原案作成。
現在まで、規約の確認が終わった。
実行委員長は同窓会長、副会長は学校長とPTA会長、事務局長は教頭とする。
事業内容は、式典、祝賀会、講演会、亡師亡友の慰霊祭などの定番はもちろんであるが、教育振興基金の拡充を中心に据え、あと、体育館ステージの緞帳の補修やグラウンドの散水施設の設置、プロジェクター設置、体育館放送施設の改修、屋久島高校関係者による芸術展、町内中学生による弁論大会の復活などが候補に上がっている。
ただ、経費を伴うものだけに、どれだけ実施できるか、今後の課題である。

5.教育振興基金ってなに?

五十周年記念事業では、どうしても今やっておかなければならないという思いが、私の中に三つあった。
記念誌の作成と校訓碑の建立、それに人材育成のための援助である。

記念誌はこれまで一度も作られていなかった。
私が関わった三十周年では、卒業生が4,000人前後、二十代から三十代が大部分である。
そんなに募金が集まるはずがない、と考えたからである。
十周年で記念誌を作っている学校もあるのだから、その選択が適切であったかどうかはわからない。
しかし、今回は是非作らねばと考えた。
歳月が経つと人間の記憶も薄らいでいく。
だから今のうちに記録として残す必要があると。
「こんな時代もあったのね」と後の人たちが、屋久島高校の存在を確かめてくれれば幸いである。
編集に当たった係の方々に、原稿を寄せていただいた旧師、卒業生に感謝したい。

校訓は学校の教育方針の基本理念である。
だから、そこに学ぶ生徒たちにも常に自覚していてほしいという願いがあった。
それは、校訓を定めた初代校長:深田直彦先生の「教養を豊かにし個性を啓発して、人格の完成を目ざし国家社会の福祉に寄与できる社会人を育成し、堅実な校風をつくろう」(前出『青春有情』)という思いに通じるものがあると思った。
それで正門近くの場所に建てた。

人材育成のための基金(教育振興基金)は、学校存続の一助になればという考えがあった。
奨学金制度とまではいかなくても、学校と生徒たちが元気のでるものに使われるのなら、という気持ちである。
多くの同窓生もその趣旨に賛同してくださった。

五十周年では、当初募金目標を2,000万円とした。
しかし、募金の集まりが思わしくなく、同窓会名簿の発行を見送ったり(個人情報保護の風潮が高まったこともあるが)、印刷費や、校訓碑の建立を卒業生に安くしてもらったりして、経費の節減に努めた。
その結果、1,000万円の余剰金を生み出すことができた。
すべてを振興基金にという意見もあったが、そのうち500万円を振興基金とし、残額を同窓会会計に繰り入れた。
六十周年を念頭に置かなければならないし、すべてを振興基金にすると、短期間に費消してしまいかねないからである。

振興基金のこの九年間での主な支出は、高校生環境サミットの旅費補助、陸上部選手の強化合宿旅費補助、普通教室の天井扇風機の取り付け(三回分割)などである。
その後の収入は、同窓会からの100万円の繰り入れだけである。
現在の残額は367万円弱。
このままでは、運用規定に従えば、来年度は37万円しか支出できないことになる。
これが教育振興基金である。
おわかりいただけただろうか。

6.小さな節目かもしれないが。

六十周年は、五十周年に比べると、小さな節目かもしれないけれど、屋久島高校を取り巻く状況を考えると、おろそかにはできない。
小さくても、学校が忙しくなることは、私の経験からいって間違いない。
私たちにできることは、その負担を出来るだけ軽くすることだろう。
そのためには、子どもたちや後輩たちのために、屋久島高校の応援団になろうではないか。
期待を込めてそう訴えたい。

 

(*参考)
屋久島タイムス[H19.410のニュース&コラム]
平成19年4月1日現在の
屋久島の小・中学校の児童・生徒数のデータへ

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