木原滋文の島人コラム Vol.21

 

母校への思い・・・自分史風に (7)
 「高校 2」

私が屋久島高校に入学したのは1958年(昭和31年)である。
戦後十年が過ぎ、世の中はかなり落ち着いていたようだが、地方では、ことに離島の屋久島ではまだまだ生活は厳しかった。
私も高校までは屋久島でと父に言い渡されていたのは、そういう事情があったのだろう。
高校進学率は、県内でも70パーセント前後ではなかったかと思う。
屋久島ではもっと低く、50パーセントぐらいではなかっただろうか。
経済的理由もさることながら、当時の屋久島高校が定時制だったことも理由の一つとして考えられる。
というのは、次の年から全日制になり、入学者が倍以上になり、不合格が出る程だったからである。
ちなみに、私達の卒業生は家庭科(ニ年課程で早く修了)を含めて51人、一年下は、普通科・商業科で90人である。
中学卒業生が倍増したわけでもないのだから、課程の違いしか考えられない。
ということで、私達は最後の定時制の入学生、卒業生になったわけである。
四人程、最初の全日制入学生になった人もいたが。

当時の入試(正確には入学学力検査)は、九教科だった。
現在の国、社、数、理、英に加え、音楽、図工、保体、職家(現在の技術家庭)の四教科があった。
つまり、中学校で習うすべての教科が試されたのである。
しかも、すべての点数は平等に扱われ、900点満点である。
生徒の負担は大きくなるが、それなりに意味はあったと思う。
四教科は、実技を伴う教科とは言え、実技が苦手な生徒にとっても、その教科への関心を高めるきっかけになるのではないだろうか。
たとえば、歌の苦手な者でも、♯、♭の記号を覚えることによって、ある程度、楽譜を読めるようになる。
今、こうしてシャープだの、フラットだのという言葉が出てくるのも、中学時代に覚えたからである。(高校では、美術はおろか音楽はなかった。)
入試に関係なく、しっかり学ぶべきだというのは、正に然りなのだが、現実はそうだろうか。
正論通りだったら、進学校での未履修問題など、出てくるはずはない。
私立中学校の中には、四教科の時間をほとんど五教科に振り替えていたといううわさも聞いたことがある。
目先のことにとらわれてしまいがちな人間の浅はかさ、悲しさなのだろうか。
ことは、入試科目の話だけでなく、環境問題、平和の問題にまで及ぶことは、言わずもがなである。

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