木原滋文の島人コラム Vol.22

 

母校への思い・・・自分史風に (8)
 「高校 3」
 〜ポンカン園、学校林のこと〜

私が高校に入学した頃は、まだ草創期の名残があった。
ポンカン園の手入れもその一つである。
当時、高さが1メートル位だったから、植栽してそう年月も経っていなかったのだろう。
沿革史によると、昭和29年3月18日ポンカン園開墾植付完了とあるから、2〜3年後ということになる。
手入れとは施肥である。
入学して間もない5月ごろではなかったろうか。
作業にかかる前に、教頭から
「このポンカン園は、将来、学校の備品を買うためのものである。
 そのつもりでしっかり手入れをしてほしい」
というような話があった。
図書室にいっても、本は数えるほどしかなかったので、そういうことなんだろうと、妙に納得したのをおぼえている。

作業は、一本一本の木の周りをL字型に、深さ70〜80センチ、幅50センチ、長さ一辺1メートル余りに掘り、そこに学校周辺の草や木の葉を刈り取って埋めていくのである。
本数にして20〜30本、いや、もっとあったのかもしれない。
普通科、家庭科の一年生約50人で半日を費やした。
鍬や鎌などの道具は、ほとんど自宅から持って来たものであった。
その後、そのポンカン園がどうなったのかは知らない。
備品になったという話は聞いたことはない。

同様の作業は、学校林の下払いと補植があった。
これも沿革史によると、昭和31年3月15日、演習林第一回造林1,100本植栽とある。
私が入学した年である。
道理で補植が必要だったはずだ。
夏休み前の一日、全校生徒で取り掛かる。
山は、学校から歩いて約一時間の所にあった。
当時は全校生徒といっても140人、それでも半日以上要した。
この山の作業は、私が昭和50年代、教師として赴任した時も続いていたが、期待した程のものではなかった。
木の数が半分もあったろうか。
おそらく、幼木の手入れの際、過って切ってしまったのではなかろうか。
自分の山の下刈りに行って、そんな経験があったからである。
二度目の赴任の時は、もちろん作業はなかったし、帳簿にもないとのことだった。
山自体が消えるはずはないのだから、一体どうなったのだろうか。

ポンカン園にしろ、杉山にしろ、それに関わった生徒たちは、後輩たちのためになるのだからと、作業に取り組んだに違いない。
今となっては徒労になったことが、残念でしかたがない。
ただ、沿革史に記録と、当時の生徒たちの思い出しか残っていないのだが。

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