母校への思い・・・自分史風に (12)
「高校 7」
〜創立十周年記念誌 [その1]〜
昨年(平成20年)6月、母校の文化祭が六十周年記念文化祭ということで、同窓会コーナーを設けてもらった。
展示は沿革の抜粋、野球部南九州大会出場の記録、そして最も人気があったのは、歴代の卒業記念アルバムだった。
このアルバムは、全日制一期生から始まった。
残念ながら、私たちのものは無い。
これは校長室に保管されているので、それを片付けている時、偶然、この創立十周年記念誌を見つけた。
そういうものが作られたことなど知らなかった私には驚きであり、感動でもあった。
十周年は、私が三年生の時である。
50年前の自分を見出したような気分になった。
これがコピーだったのは残念だったが、それでも、私にとっては宝物を発見したような思いだった。
全部で四十四頁のこの冊子は、表紙が厚いものだったのか、どんな色だったのかは分からない。
奥付によると、昭和34年3月15日とある。
私は、この月の末に、島を離れており、こういう記念誌が発行されたことを知るはずがない。
印刷は、南日本新聞印刷局。
当時、文集などの印刷は、すべてガリバン印刷だった。
活版印刷はほとんどが南日本新聞社だったのだろう。
内表紙には、太忠岳と思われる写真が載っている。
一頁に校歌。
これも十周年を記念して作られた。
二頁には校章、全日制移管の条件として建てられた新校舎、松林の中にあった寮、ポンカン園、そして、当時の先生方の写真。
三頁にはなぜか屋久島民謡「まつばんだ」の歌詞に見開きの半分を割き、もう半分には、屋久島の地図がある。
以下、目次、蓑輪英孝校長の巻頭言と続く。
吉川正巳教頭の「記念式典までの経過」を読んでいて、思い出すことがいくつかあるが、その中のひとつに、創立記念日に行なわれた泊川遠足がある。
四月十三日の創立記念日は、鹿児島新報社発行の『青春有情』によると、種子島高校上屋久分校として認可され、開校式が行なわれた日である。
私が入学した年も、確か創立記念を兼ねた、新入生歓迎遠足があったことを思い出す。
その歓迎遠足も現在では、学校行事精選のあおりで(授業時数確保のため)消えてしまい、創立記念日さえも、忘れ去られているのではないだろうか。
新入生歓迎のセレモニーは、入学式翌日の対面式という形で残ってはいるが。
同窓会も、正式には創立十周年とのかかわりの中で誕生したようだ。
創立記念事業に、三十・五十・六十の各周年に関わった者として、その間の事情は、容易に推測できる。
ただ、卒業生五百人足らずの同窓生が、どれほど実質的に力になったかはいささか心もとないが、これが契機となったことは間違いなさそうである。
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