木原滋文の島人コラム Vol.27

 

母校への思い・・・自分史風に (13)
 「高校 8」
 〜創立十周年記念誌 [その2]〜

もっとも興味深いのは、坂吉次郎前校長と椎原国紀前教頭(いずれも当時)の寄稿である。

坂先生の回想は、運動場建設やポンカン園植栽、ピアノ購入などに、財政の苦しい村当局、地域住民、そして職員、生徒たちの知恵と労力が注ぎ込まれたかが、如実に語られている。
運動場建設には、中学生だった私自身、奉仕作業に参加した経験がある。
重機など無い時代だから全て手作業である。
山手側の土地を掘り起こし、それを海手側に運んで平地を広げていく作業である。
先輩の中には、授業より作業の方が多かったと話していた人もいたほどである。
村立から県立への移管も大変だったとの話は聞いたことはあるが、全日制への切り替えには、統廃合との絡みがあり、ここで初めて、上屋久・下屋久両村が一体となった運動が展開されたことがわかる。
それまでは、県立になっても、上屋久村が中心になって全て動いていたのである。
椎原先生の文章は、まさに屋久島高校草創期の姿が髣髴(ほうふつ)させる。
先生が在職されたのは、昭和25年4月から昭和31年3月までの六年間である。
永田教場に赴任された先生が、本校を訪問された時のくだりを転記してみる。
「釈迦堂坂を登りつめた時、一面の荒地の中に、古びた平屋が一棟置き忘れられたかのように立っているのを見て『ああ、これが高校か』と呆然たらざるを得ませんでした。ただ校舎を取り囲む松や背景の山々の新緑が印象的でした。当時誰が、今日の盛況を想像することが出来ましたでしょうか。」
私が小学四年から中学三年の間のことで、通学路近くの場所だったことから、この、先生の思いは実感できるのである。

生徒会の育成は「敬愛・互譲・協力」の校風樹立には欠かせなかったに違いない。

現在の多目的校舎「清和館」は、旧:清和寮を改築し、名称もそのまま引継いだのであるが、その「清和」は、なんと聖徳太子の十七条憲法に由来することを初めて知った。

ポンカン園の開墾も、財政の厳しい中で、将来施設設備の充実の足しにでもという思いでなされたとのことである。
さらには、奨学金の一部にと紅茶栽培の夢もあったというを知るに及んでは、当時の職員生徒の夢の大きさ、意気の高さには、ただただ驚くばかりである。
1ヘクタールの学校林の植樹も、きっとその延長線上にあったのだろう。
延べ十ニ年間も在職した私など汗顔の至りである。

この「十周年記念誌」が、草創期の屋久島高校の姿を知る上での貴重な資料であり、私にとっての宝物といえる所以である。

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