木原滋文の島人コラム Vol.28

 

日日是好日 (1) 「はじめに」

毎日が日曜日の日々を過ごすようになって、3年半が過ぎようとしている。

定年後の5年間は、週5日間の仕事や新聞記者の仕事があり、それらを中心にして一日一日が回っていた。
それゆえ、これまでの仕事とは変わったものの、生活にリズムがあり、定年ということは、それほど意識しないで過ごしていたような気がする。
それは人間として、主体的に生きていなかったのかもしれない。

ところで、その「主体的に生きる」とはどういうことなのだろうか。
一つ一つの行動を意識的になすということも定義の中にいれてもよいだろう。
70年近く生きてきた中で、すべて、成り行き任せだったわけでもない。
運命的(宿命的?)要素もある。
まず、両親の子としてこの世に誕生したことは、それこそ神のみぞ知る出来事なのだ。
敗戦によって屋久島に引き揚げてきて、高校までこの地で暮らさなければならなかったことは、運命以外の何ものでもない。
大学進学、就職、結婚などは、運命的なものと、意志的なものとがない合わさってる。
「福徳はあざなえる縄のごとし」という西鶴の言葉を借りれば、人間の生き方も、また同様なことが言えるのではないか。

日々の暮らしを考えると、外的な要素がリズムの主たるものだった気がする。
教員だった私には、学校の年間行事をもとに、学期、月、週という時間の区切りの中で、暮らしが組立てられていたことに気がつく。
完全定年になってからは、それらがなくなり、自分でリズムを作らなければならなくなったのである。
それこそ主体的に生きなければ、惰眠をむさぼることになってしまう。
それではいけないと思うのは、せっかくこの世に生かしてもらっているのだからという気持ちがあるからなのだろう。
こうした駄文を綴るのも、その一つの表れなのかもしれない。

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