木原滋文の島人コラム Vol.39

 

日日是好日 (12)  私の「かなくそ坂」[後]

「かなくそ坂」というのは、宮之浦の墓地へ通じるお寺の横の坂道のことである。
今では、サイドストリートになってしまったが、かつては、葬儀は必ず、この坂道を通らなければならなかった。
私が、その坂道を初めて上ったのは、叔父の葬式の時だった。

叔父は父の弟で、私が幼い時には、大連にも遊びに来ていたらしいが、私を抱いている写真と、私たち家族3人と一緒に写っている写真でしか知らない。
母によると、私をとても可愛がってくれたらしい。
その叔父の戦死の公報が来たのは、私たちが屋久島に引き揚げて来てからであった。
わが家の近くにあった警察から帰った父が、祖母や叔母たちを含む家族にそのことを告げた。
昭和20年6月30日フィリピンのなんとか島で戦死ということだった。
叔父のことをよくは憶えていない私にはピンと来なかった。
おそらく「人の死」というものがよくわからなかったのだろう。
骨箱が届いたかどうかも憶えていない。
当時、屋久島の葬式は土葬だったので、一般には棺桶に遺体をおさめ、先島丸(さきしままる)と書いた霊屋(たまや)とともに、出棺し墓まで担いでいく。
しかし、叔父の場合は、棺桶の必要はなかった。
葬儀の様子は小説にあった通りである。
赤、青を先頭にした幟旗(のぼりばた)が数本続き、位牌、霊膳などが並んで、かなくそ坂まで行く。
そこにある台の上に霊屋を置き、最後の別れをする。
そして履いていた草鞋を捨てて人々は帰るのである。

弟の時は、鹿児島で火葬を済ませていたし、子どもだというので、霊屋も小さいものであった。
私には2度目の葬式だった。
その時も弟の死は未だ実感できず、悲しみはかなり後になってからで、それも長く続いたことを今でも憶えている。

20代半ばで逝った叔父、わずか5歳で旅立った弟。
寿命というには、余りにもはかない一生だった。
二人に比べて70年も生かしてもらっている私は、やはり寿命というものに感謝すると同時に、自分の生を大切にしなければと思う今日この頃である。

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