木原滋文の島人コラム Vol.7

 

とっびょとい(飛魚獲り) [その1]

四年前、上屋久町の宮浦中と一湊中で「心の教育相談員」をしていて、相談室便り(「緑の風」)を出した。
生徒と保護者向けである。
その時書いた「私の中学時代」と題したものが表題の文章で、次の文章は少々手を入れた。

昭和30年代の屋久島の漁業の中心は鯖(サバ)と飛魚で、中でも飛魚は、四月末から六月末(時には七月にずれこむこともあった)の飛魚の産卵期が漁期であった。
普段は漁業とは関係のない者までがにわか漁師になった。

船数はどの位だっただろう。
当時の漁船はほとんどが飛び魚漁専用のもので、鯖釣りは発動船という船を用い、その船が飛び魚漁の時は二艘の伝馬船を曳いて港と猟場を行き帰りした。
しかし、発動船の数が限られているので、飛び魚船がふえるにつれて、一方の伝馬船に機械を取り付けるようになった。
そんな船が、宮之浦川の両岸にぎっしりつながれていた光景を思い出す。
二艘一組で漁をするのだが、それを「いっじょはい」と言った。
いっじょはいには、14〜15人が乗り込む。
片船に、表立ち(船頭)、いわ引き(網の前方の綱を握る)、あば引き(網の後方の綱を握る)、すみ手(海に潜り、魚の動きをさぐったり、網を広げる)、櫓漕ぎが3〜4人である。
網を投げ入れたり、引いたりするのは櫓漕ぎが行なう。
当然、大人だけでは足りないので、高校生はもちろん、中学生までかり出される。
女性の乗った船もいた。多分、網引き要員だったのだろう。

私も中学二年のとき、母方の伯父に頼んで連れていってもらうことにした。
初めは土曜の夜(正確には日曜の朝)と休日前の日だけだったが、そのうち平日にも行くようになった。
大漁のときは、猫の手も借りたい位忙しいのと、私自身慣れてきて面白くなったことによるものである。

漁は夜明け前の薄暗いころから始まる。
飛魚は、浦や入り江の比較的波の穏やかな所で、その時分に産卵するからだ。
産卵を終え、沖に向かって動き出したのを"でいお"(出魚)と言う。
出魚が始まって約二時間が勝負である。
群れの大きさや漁場の条件によって時間の長短はある。
産卵前のものを"まあいいお"(回り魚)と言うが、これを獲ることを夜網をうつと言った。
夜網をうつことは原則としてご法度であった。
罰則はないものの、故意に夜網をうったことがわかると、汚いと非難され、軽蔑された。
漁師のモラルというものがあったのだろう。

(以下続く)

●このページのトップへ↑

ホーム > 木原滋文の島人コラムINDEX > 島人コラム Vol.7