木原滋文の島人コラム Vol.8

 

とっびょとい(飛魚獲り) [その2]

産卵を終え、沖に向かって動き出した飛魚を"でいお"(出魚)ということは、先に述べた通りであるが、でいおはひたすら沖へ向かうだけで引き返すことはしない。
そのでいおを文字通り一網打尽にしようというの寸法である。
しかし、ことはそう簡単ではない。
なにしろ100じょうはい(200艘)の船である。
岸に近過ぎると魚の真上になるし、沖になり過ぎると前の方でほとんど獲られ、おこぼれにしか預かれないという始末。
場所取りから既に戦いは始まっている。
暗い海をのぞいても、私達にはよくわからない。
夜光虫のきらめきと、飛魚がときどき見せる腹の白さとの区別がつかないからだ。
しかし、そこはベテラン、それを見定めるとすぐに適当な場所に移動する。
もちろん、櫓を押してだ。
機械をかけようものなら、まわりからブーイングが起きる。
中には名人と言われる船を探し出し、その近くに待機する船もある。
どこかで騒ぎ出すと色めき立ち、網打ち(網を海に投げ入れること)の準備が始まる。
それまで片船に積んでいた網を両方に均等に分ける。
表立ち(船頭)の指示に従い、浮きをつけた"あば"(網の後方)の方から投げ入れ、最後にいわ石(おもり)をつけた"いわ"(網の前方)を落とす。
これを手早くすませ、一斉に"へた"(岸の方)へ向かって櫓を押す。
すみ手(潜る人)は、すぐに海に飛び込み、網を広げたり、魚の動きを見る。でいおなのか、まわいいお(回り魚)[*産卵前のもの]なのかを判断する。
まわいいおは、群れの先頭が行き止まりになると、Uターンする習性があるので、その見極めがすみ手の腕の見せどころらしい。
でいおだったら、その群れの最後尾まで待てばいいが、まわいいおだったら、先頭がいわ綱(網の前方の綱)を越えたらすぐに引けの合図をしなければならない。
網の引き上げ方も違ってくる。
まわいいおだと特にスピーディーに引き上げることが要求される。
いわ綱にみんなで取り掛かる。
いわが上がったら、中央からあばの方にかけて上げていく。
でいおの場合も手順は同じなのだが、リズムが少し違う。

一網で1〜2万尾獲れることがある。
網は当然重くなるが、さして苦にならない。
不思議なものだ。
手抜きでもしようものなら、表立ちにどなられる。
魚が海面近くに引き上げられたとき、二艘の船は50度ぐらい傾く。
そして、一挙に引き上げられるかどうかを見定め、無理だとわかると、直径60〜70センチのタモ(*タブとも言う)ですくいあげる。
すくうというより、自分の体に浴びせるといった方がいいかもしれない。
それを両方の船で行なう。
そういう一連の作業が一回で終わることもあるが、群れが大きいと数回繰り返される。
時間にして短い時で一時間余り、四時間に及ぶこともある。
暗かった海もいつのまにか明るくなり、お日様が顔を出しているのに気づく。
身も心もクタクタだ。

それも休みの時はいいが、平日だと学校が気になる。
少々遅れても学校は大目に見てくれた。
それが単なるアルバイトでなく、貴重な現金収入になるという、当時の地域の貧しい状況をわかっていたからだと思う。
中学生の私でさえ、1シーズンに3〜4万円もらった記憶がある。
高校の授業料が月300円前後、鉛筆一本10円の時代にである。

私の"とっびょとい"は、高校一年までであった。
屋久島高校が全日制に移管され、定時制の私達までもが、農漁繁休暇がなくなり、さらに平日のとっびょといは全面的に禁止になったからだ。
それでも、労働力としての面と生活資金としての面から、そのまま続けていた友人もいた。
この場合も、いわゆる指導を受けた人がいたという記憶がないから、高校は事情を汲み取って、大目に見ていたのではないだろうか。
古き良き時代といえよう。

漁が終わった後、大きく広がって*白く濁った海面の色を今も忘れることはできない。
(*産み落とされた飛魚の卵で海面が白くなる)

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