政治家は夢を語り、原則を論じよう
道脇にかろうじて生き残ったノカンゾウの花を見て、40年前に日本海に浮かぶ飛島へ旅をした時に見たオレンジ色の鮮やかな群落や、尾瀬のニッコウキスゲのことを思い出しました。
島の旅館の夕食に、この花の天ぷらが添えられていたことも懐かしい思い出です。
この時期、屋久島の道脇の至る所に咲き乱れていたあの花は、一体どこの行ってしまったのでしょう。
道路改良工事の時に、土と共にどこかに持ち去られてしまったのでしょうか?
この夏、変だと思ったことのもうひとつは「今年の蚊は羽音を立てずにやって来るようだ」と言ったら、すかさず「そりゃ老齢化現象です。あなたの耳のせいです」と反論されました。
大事なものを持ち去られていながら気がつかず、危険予知に疎くなったのは、歳のせいばかりではないと思います。
対処療法としか思えない論が声高に語られ大手を振って歩き回り、原理原則論が疎んじられ、結果に対する責任は回避される風潮は、なにも屋久島だけに限られたことではないのかもしれません。
その中でも、最近もっとも不満に感じるのは、議論の府であるべき議会、それを構成する議員が夢を語らず、これといった政策論争が聞こえてこないことです。
したり顔で「そんなことは語るまでもないこと」と、あらゆる事が片付けられるのは残念な風潮です。
9月3日の南日本新聞に、屋久島の山中トイレの屎尿搬出についての記事がありました。
これをめぐる反応は、屋久島の現状を垣間見て大変面白いものでした。
行政の責任回避論は埒外として、住民は「だからお金をとるシステムを早く確立せよ」・・・・、来島者は「どこに納めればいいのかわからないままに下山してしまった、申し訳ない」・・・ちなみにガイド付きのツアーだったそうです。
余談ですが、私の持論は単純です。
「自分で出したものは、自分で持ち帰る」自己責任を負えない者は山に入らないこと。
原理原則を論ずることなく対処療法ばかり施した結果、「お金」の話ばかりになってしまうのです。
結果的には「お金が足りない。このままでは屋久島の山は糞まみれになってしまいます。更なるご協力を!」という宣伝を、タダでしてもらってありがとうございました・・・ということでしょうか。
一方、屋久島町9月議会に「議員定数を16名にする請願」が上がったようですが、これもまたおかしな話です。
その目的は一体何なのか、これもまた「お金」の話なんでしょうか?
・・・もしそうだとしたら、「議員報酬の総額規制」の話をしましょう。
間接政治を考えるならば、出来うる限り住民の代表者たる議員は多いに越したことはないと思います。
原理原則論に立ち返れば、合併の前提であった法定協議会で議員定数は22名と決まり、合併の行く末を監視したいということで任期特例を決めた議会が、22名定数を決めたのです。
その同じ議会が、一度の選挙を経ることもなく「20名」等という中途半端な定数を決めたことに起因することを反省すべきです。
法定協議会のメンバー、合併を推進した方々・・・、あなた方こそが「定数22名で一度選挙民の審判を受けろ」と声を上げるべきでしょう。
そうでないと朝令暮改どころの話にもなりません。
間接民主主義のもとでは代表者は多い方がいいのか少ない方がいいのかを論じてください。
お金の話は、単価か総額かの議論でいいのです。
(2008.9.5発行のレポート50より)
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