サンデー毎日の暮らし
三十年余り勤めた教師を辞めて六年目に入り、三ヶ月が過ぎた。
五年間は中学校の心の教室相談員や高校の非常勤講師をしたり、新聞記者の仕事で、それなりの日々の暮らし方ができた。
しかし、その後は毎日の過ごし方をすべて自分の意志で決めなければならなくなった。
傍(はた)から見れば、うらやましい限りであり、ぜいたくな悩みと言われるかもしれない。
確かに、勤めていた頃は、休養がとりたい、自分の時間がほしいなどと思っていた。
考えてみると、サラリーマン生活が習い性となり、いつの間にかレールの上を走っていたようだ。
おまけに生来"ものぐさ"ときている。
晴耕雨読と言えば聞こえはいいが、雨の多い屋久島では「日暮らし硯」に向かっているのも飽きが来る。
ましてや兼好法師のように頭が冴えていないのでなおさらだ。
「山尾三省さんは偉かったなァ」とつくづく思う。
その著書からしか推測できないが、日々を主体的に過ごしておられたのだろう。
しかも自由に。
私もとりあえずしなければならないことを箇条書きにメモしている。
書き出してみると「つれづれわぶる」暇などないはずなのだが、それがうまくいっていない現実がある。
そこをなんとかしなければ、これから死ぬまでこんな暮らしで終わってしまいそうだ。
「ま、それでもいいか。お前はその程度の人間なのだから、そんなに肩に力を入れなくても」という声もどこからか聞こえてくるのだが。
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