木原滋文の島人コラム Vol.4

 

軍国幼年の思い

「母の背中に小さい手で、振ったあの日の日の丸を」「勝って来るぞと勇ましく、誓って国を出たからは、手柄たてずに死なりょうか」などの歌を覚えたのは、四、五歳のころだったろうか。
私は1940年生まれだから、日中戦争(支那事変ー盧溝橋事件1937年)は、すでに始まっていた。
しかし、当時住んでいた大連での人々の暮らしには、まだ戦争の影響はさほどなかったようだ。
冒頭の歌に見られるような「戦意高揚」の雰囲気だけはあったに違いない。
私が覚えたのは、母に教えられたか、周りの人たちが歌っていたのを、自然に覚えたのかどちらかであろう。ひょっとするとラジオから流れていたのかも知れない。
もちろん、童謡や唱歌も覚えている。が、近所の兄さん、姉さんたちが歌っていたのは、軍歌風なものが多かったような気がする。
「今日も学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです。お国のために、お国のために戦った兵隊さんのおかげです」「僕は軍人大好きよ、今に大きくなったなら、勲章つけて剣さげて」のような歌である。
今思うと信じられないような話だが、当時の大人たちが、それを当たり前のこととして受け入れ(受け入れさせられ?)ていたのだから、子供にとってはなおさらである。

「国を愛する心を養う」のは、文面通り受け止めると、ごく自然なことだが、「国のためには命を差し出す覚悟を育てる」となると「待てよ」と言いたくなる。
憲法を変えて戦争ができる国にしようとする動きが強まる中での「国を大切に思う態度」などとても文面通りには受け止めることはできない。

戦後一年半、大連で過ごした。
私の戦争体験は、むしろその間が記憶に残っている。
売り食い生活もその一つである。
母は二歳になる弟を背負い、五歳になる私の手を引き、自分の着物を抱えて、繁華街に出かけた。
相手は主に進駐してきたソ連兵である。
だから、そこに出かけることを「ハラショーに行く」と言っていた。
「ハラショー」とは「素敵だ」などの意味のロシア語である。
売れたかどうかは憶えていないが、怖い思い出だけは残っている。
親子4人でアイスキャンデー売りをしたこともある。
暑い中での商売だから、解けないうちが勝負だ。
ところが解け始めると商売にならないから自分達で食べる。
片言を覚え始めた弟と「父ちゃん、まだ解けないの」と今では笑うに笑えない思い出もある。
直接戦火の記憶を持たずに済んだとは言え、やはり戦争体験の一つと言えよう。

近くの幼稚園から「ひょっこりひょうたん島」や「翼をください」などの歌が聞こえてくるたびに、この子供たちに「兵隊さんのおかげです」とか「勝って来るぞと勇ましく」などを絶対に歌わせてはいけないし、そんな歌を歌わすような国にしてはならないと、強く思うこの頃である。

 

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